


10代の終わり、まだ一人暮らしの大学生だった頃、たいそうな贈り物をもらったことがある。ステンレスのお鍋とタオルの3点セット。とはいえ、くじ引きの景品でもらう安っぽいものではない。
多層ステンレスの、ずっしりとしたアメリカ製の片手鍋で、そのころの私にはとても重く感じた。さらにタオルは毛布のように厚い。スモーキーなブルーでシックな花柄を織り込んだもの。新品のそれはまだゴワゴワとかたく、大げさなものに思えた。一人暮らしで、紙のように薄っぺらな生活をしていたその頃の私には、どちらもまだまだ手に余るものだった。
贈り主はアメリカ人を旦那様に持つ年上の女性で、未熟だった私に、結婚のこと、暮らしのこと、人生のこと、折につけて話してくれた。当時30代半ばだった彼女は、とても大人に見えた。そんな彼女の家に招かれてのホームパーティ。いきさつは忘れたが、なぜかそんな贈り物をもらったのである。
使ううちに驚いたのは鍋の実力である。重いフタがしっかりと中の熱と蒸気を閉じ込め、ただのカレーも煮物も美味しくできるようになった。フタと本体の間に熱い蒸気の膜ができ、コンロの上でカタカタいう様子は今でも目に焼き付いている。それまで使っていた安いアルミ鍋とは雲泥の差だった。
タオルはなじみ始めると、ふっくらと体や顔を包んだ。これまで使っていたような、水を吸うとすぐに湿ってしまうぺらぺらなタオルではなく、まるで衣服のように皮膚を包み、そうそう湿らなかった。それでいて柔らかいのである。
なんて快適なのだろう。
驚いたのは、そう思ううちに20年近くが過ぎていたことである。
こんなことを書こうと思ったのは、先日、洗濯物を畳んでいたときだ。バスタオルに、フェイスタオル、ハンドタオル。例の3点セットをたたむと形も角もしっかりと整った。他の使い込んだバスタオルはたたんだ角がいびつにゆがむのに、彼女からもらった3点はきれいにふっくらと積み上がって、改めて思ったのである。「いいものを使い続けるって、すごいことなんだ」。それは自然に暮らしの中に沈み込み、使っている時間を感じさせない。変わらぬ心地よさに時の経つのを忘れてしまうのである。
鍋の方も10数年使い続けて、昨年手放した。食器洗い乾燥機で洗っていたら、柄が乾燥して折れてしまったのだ。無名の海外製品であり、修理もままならなかった。しばらく迷っていたが、まだ使える厚手のフタだけ手元に残し、ある日、思い切って柄のない本体には別れを告げた。けれどもこの鍋から学んだ熱の通し方は、手の中に残っている。いまだ、あれを越える鍋が見つからない。
タオルも鍋も最初は自分の生活水準のずっと上にあると思っていた。けれども、いつの間にか自然に使いこなせるようになって、生活の質ははるかに上がった。いいものを使う喜びを手と体が覚えたのだ。もの自体がなくなっても、その感覚は残っている。
何を思ってそれをくれたのかは、わからない。けれどもいつの間にか渡米し、疎遠になってしまった彼女のことも、この鍋やタオルを使うたびに思い出した。「いいもの」というのは、ものという機能的な用途だけではない。時には息の長いメッセンジャーになることを、私はこのギフトで知ったのである。


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